Category Archives: art

multiplying shades – homage to A.W. –

You may feed these vague fishes painted in black-and-white.

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a certain slant of light — one year since M.K.’s passing

ご存じ、デビッド・シルビアンがミック・カーンを悼んだ鎮魂歌。 ビデオのヴァージョンは、Died in the Woolに、A Certain Slant of Light (for M.K.) のタイトルで収められている。 歌の後のインストは、Brilliant Treesを想い起させるかのように、霊性の音が漂う。 エミリ・ディキンソン(1830-86)のこの詩には、様々な和訳があるが(坂本龍一氏も訳しているらしい)、 アルバムの中でやや異色のこの曲を傾聴すると、D.S.の声が想念を伝えてくるかのような錯覚に襲われ、 僭越だが、曲調に合うかのように訳してみた。 詩の和訳は初めての挑戦(ただ先達訳を参考にさせて戴いた…)だが、 詩とは; 文学~音楽の狭間、または「言葉以前」のものが蠢く音楽のような気がする。 As fans know, David Sylvian sings “A Certain Slant of Light” for Mick Karn as a requiem. This Emily Dickinson’s poem has … Continue reading

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memo-ir

Everything and Nothing = 無一物 ヒッグス粒子 Higgs boson = 質量の発生 蛋白質の“星”

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鍛冶職人と音楽・上演アート ジャワにおいて~人類学者S.アン・ダナムの視点*

■米経済人類学者S.アン・ダナム(1942-95)は、インドネシアのジョクジャカルタ市郊外にある一つの鍛冶村落、カジャールを14年間にわたり調査した。彼女は労作の博士論文Surviving against the Odds, Village Industry in Indonesiaの中で、ジャワにおける鍛冶職人と音楽、上演アートの関連を特筆している。 repost: the original was uploaded March 29, 2011

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アチェの復興にみる民族舞踊 ~津波から6年~

2004年末の大津波に見舞われたアチェ。あれから6年余り。政府が特別設置したアチェ復興庁の先導で、惨事の爪痕は残っているものの、人々の暮らしは平穏に営まれている。独立派との和平成立後の経過が比較的平穏なのも、大きな幸いだ。 自分が暮らすジョグジャの地元NPO(ちょっとお付き合い)も、日本の資金援助を受け現地の衛生・生活水確保の設備活動を続け、一定の役割を果たしてきた。 アチェの代表的な民族舞踊といえば、サマンSamanが知られている。「千の手の踊り」ともいわれ、そのユニークかつ芸術性の高い踊りは国内外の人々を魅了。映像を一視すれば、きっとお分かりいただけるだろう。 古い新聞記事だが、日本とインドネシアで活動する関将(せき・しょう)さんというギタリストが「サマンはアイヌ文化と似ている」とコメント。なにムム…と好奇心をくすぐられ、サマンをつらつらと再考してみた。 .これ→は自分が08年、ジャカルタの舞台付きレストランで撮影したもの。踊り手はアチェの人々ではないが、インドネシアの由緒ある伝統舞踊団が披露してくれた。 近くで観ると、奇声を発し動きを加速していくその迫力たるや。パンクなんぞカワイイもの(ちょっと聴いた時期が^^)。ピタコラ体操か、モザイクの様なパターンで埋め尽くされたエッシャーの絵を連想した。 脱線した… サマンは、アチェ(スマトラ島北端部)の山間地に暮らすガヨ族を中心に受け継がれている。基本的には列をなし正座したまま。しかしリズムは躍動的で、踊り手のシンクロかつ計算されたユニークな動きの組み合わせが特徴だ。 掛け声を合わせ、間髪いれぬパフォーマンス。次の踊りは次第に加速。最後は膝を立て、ハイパースピードで複雑な舞いを見せる。(上記の関さん、相当サマンにハマっているようで、詳しく書かれている[1]) これまでの知識不足を痛感し、自己反省と勉強になったのだが、サマンは元々はガヨ族の男性だけが踊るもので、闘争前の集団トランス状態になるための儀礼的要素が色濃かったようだ[2]。サマンはアチェの伝統舞踊として知られているが、「ガヨ族の踊り」と別称するのが適当かもしれない。 .後に、女性の舞踊が混同され、アチェ族やバタック族など他部族に吸収・伝播されアチェに広まり、演出重視で洗練されていったらしい。やがて国内外に知られ、人々の心を惹きつけ、地元以外のインドネシア人や外国人(日本人も)にも体得を望む人が増えた。 知名度向上とともに演出に工夫が凝らされ、衣装もムラユ族風に煌びやかに。震災から一定の復興を果たし、地元の人々による伝承が蘇っている。近年は海外公演も多く行われ、サマンはオリジナリティを離れているが、舞台芸術として益々発展しているようだ。一方、自らの文化を知ってもらおうと、ガヨ族の男性による公演も活発に行われている。 インドネシア文化観光省は、「今年11月にも、ユネスコにより無形文化遺産に指定されるだろう」と。もし実現すれば、世界に一層注目されるに違いない。[3] .サマン以外にも、アチェには素晴らしい歌謡がある。震災後のチャリティー番組で、アチェの男女2人組がアコースティックギターを手に歌っていた、地元のフォークfolk(民謡)が深く耳に。まるで大地を劈(つんざ)くような歌声で、民の逞しさというか底力がぐいぐいと。生憎、歌手/曲名を覚えそびれ、どなたが心当たりがあったら、教えてくださいませ。 アチェの文化蘇生を考えると、被災後も大変な避難生活と原発事故に苛んでいる東日本の方々を思わずにはいられない。「故郷の声」が東北の地に再び響き渡ることを。スマトラ沖地震後、被災地で医療活動に携わったインドネシア人女性が、日本での看護師国家試験に合格した際、「できれば(東日本の被災地に)行かせてほしい」と言った。その言葉だけでも、まったく頭が下がる思いだ。なにか、自分の身の丈でできることを… はじめの関心事、サマンとアイヌ文化との類似云々はどっかにいってしまったが、また折をみて探るとして。 と今回も、徒然のままで__。 . [1] 関将氏ブログ:Tari Saman(サマン・ダンスとは??) . [2]TARI SAMAN ※ネット散策のみだったが(怠慢ですみません)、最もよく解説されていたのがFacebookページだった^^ . [3]予想通り2011年12月、ユネスコにより世界の無形文化遺産リストに登録された。

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ガムランの郷愁とコスモロジー ~小泉文夫とJAPAN~

夕陽がジョクジャカルタの空を紅く染めると、キャンパスの一角から聞こえてくるガムランの調べ。時より、学生サークルがリハしているものだ。 この響きに何度癒されたことか―。とりわけ昨年11月のムラピ山噴火[mov]で心身が凹んでいた頃には、心底救われた。 耳に届いてきた旋律は、あのJAPANのVoices Raised in Welcome, Hands Held in Prayerのリフレイン。曲の骨格になっているのがジャワ・ガムランだ。これについてはファンや東京音大Aneka-Sariの方が詳しく解説しておられるので、ここでは触りの薀蓄(うんちく)だけをちょっと: ジャワ・ガムランの音階には、PelogペロッとSlendroスレンドロの2種類がある。Voices-に使われているのはペロッ音階で、1オクターブを不均等に7分割している。これがガムランセット、あるいは村によって少しずつ調律がずれているというのだから、如何にも南国らしい ^*(*^^ 。 このペロッ音階が、えも言えぬ郷愁を誘う。 ジャワ・ガムラン(正確にはジョクジャ・スタイルの)は、○形式△用☆音階◇調という風に区分される。Voices-の音源は、ラドラン形式トゥダ‐サキン用ペロッ音階バラン調というらしい。ラドランLadrang はジャワ・ガムランの中でも更にゆったりした様式、トゥダ-サキンTedak-Saking はよく分からない^^。バランBarangは7音階の第1音調を指すらしい。 大学サークルがリハで奏でていた音色そのものを、ここで紹介できればいいのだが、耳にしたのが生憎、逍遙中だったり、カメラを持ち合わせていない時だったり。 どうせ、ネットに同じスタイルの演奏がアップされているだろう――と高を括っていたが、、ない…。やっとなんとか、ラドラン形式ペロッ音階バラン調-までは同じ演奏を見つけた。 旋律の一部が、なんとなくVoices-に似ている(かな^^;)。が、スバリそのものではなく、しかも演奏はジャワ人ではなく、米コーネル大学(アジア研究が盛ん)学生によるもの。〔ということは、Voices-音源と同じ区分の演奏は‘レア物’?〕 ウーン、さて、いかがなものかと額に手を当てていると、ふと民族音楽学者・小泉文夫氏[1]の記念資料室が同区分の演奏記録をネット公開していたのを思い出した。 同資料室の検索結果 あるいは、こちらから.m3uをDLしてネット聴可。1分辺りにVoices-のリフレインが聞こえてきます。 小泉氏が1971年にジョクジャカルタで採録。冒頭の同氏の語り口が何とも味わい深い。上述のAneka-Sariの方が指摘しているように、原曲(同区分曲)と聴き比べると、デビシルとステがあのリフ部分をピックアップし、そこに重ねている音とリズムのセンスの良さには、呻るばかりだ。 生前の小泉氏による膨大な資料数をみると、「この人は一体、1年間に何カ国廻って採録蒐集したのだろう」と、これまた改めてウーンと声が漏れる。以前にも書いたが、デビシルのインスト作品の中には、小泉コレクションを音源としているものがあり、Voices-も同コレクションから抽出、あるいはスティミュレイトを受けてアレンジったのは間違いない(だろう)。 ■ ジャワのガムランは単調で(特にバリのガムランと比べると)、大半はひたすら4拍子のリズムを繰り返すのみ。balunganバルンガン(骨格となる旋律)を倍、倍々...と伸ばすことで変化を付ける。これにjam karetジャム・カレッの概念と結びつける考察が多い。 ジャム・カレッとは、インドネシア語で「ゴム時間」の意味。要は、約束の時間にルーズなインドネシア人において、1時間遅れようが半日遅れようが、時には1日!(昔は)遅れようが、時間はゴムのように伸び縮みするので「ティダ・アパ・アパ」(問題ないよ~ん)といった具合の、時間観念だ[2]。 ジャワ・ガムランのリズム感に「ゴム時間」を当てはめるのは間違いではないと思うが、16ビートのガムランを奏でるバリ人だって時間にはいい加減だし、約束の時刻を守らないのは何もインドネシア人に限ったことではない(「ゴム時間」の概念はどこから来ているか―という議論の余地もある)。 推測だが、ジャワ文化の中心=ジョクジャカルタのコスモロジーと関連があるのではないか、と踏んでいる。ジョクジャは北にムラピ火山がそびえ、南には恐ろしくも慈悲深い女神ニャイ・ロロ・キドゥルがいるジャワ南海沿岸。山と海に挟まれ東西に道が延び、東にはプランバナンの巨大遺跡、西方にはボロブドゥール遺跡が残り、各先は“他界”へと通じる。 ジョクジャの人々は、南北に善、東西には悪の精霊が宿り、そのへそにスルタン(および宮殿)があるというコスモロジーを抱いている。この四方を巡回するサイクルが、単調な4拍子とつながっている(だろう)。 スルタン(イスラム王侯)の政(まつりごと)が堕落すると、東西南北の精霊パワーの均衡が崩れ、天変地異や政変が起きると考えられている。リズムが崩れ変調すると、その度に王朝が入れ替わる、あるいは外部者により侵攻される――そういった歴史を繰り返してきた、とみている。 事実、ムラピ火山が昨年大噴火した際には、中央政界を狙うスルタン(現在の州知事)に寄せる民衆の信奉が弱まった証だ―という批判が起きた。ちなみにジョクジャのスルタンの正妻は人間ではなく、女神キドゥル!である。 この手の関連書では、ガムラン演奏集団を主宰されている中川眞さんという芸術学者が、Musik dan Kosmos(音楽とコスモス)という本を、なんとインドネシア語!で著している(全171p)。実はまだ読んでいない;ので、独断仮説を検証するためにも拝読したい。 ということで、「これぞ、JAPANのVoices-音源オリジナルのガムランだ」 と見つけた方は、是非教えて下さい。批判、ご意見も大歓迎。 . … Continue reading

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S. Ann Dunham’s Viewpoint – Village Smithes, Music and Performing Arts in Java

Economic anthropologist, S. Ann Dunham (1942-95) researched a village of blacksmiths called Kajar on the outskirts of Jogjakarta city in Indonesia, for 14 years between 1977-91. Based on extensive reserch and observations in her dissertation “Surviving against the Odds, Village … Continue reading

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鍛冶職人と音楽・上演アート ジャワにおいて~人類学者S.アン・ダナムの視点

■米経済人類学者S.アン・ダナム(1942-95)は、インドネシアのジョクジャカルタ市郊外にある一つの鍛冶村落、カジャールを14年間にわたり調査した。彼女は労作の博士論文Surviving against the Odds, Village Industry in Indonesiaの中で、ジャワにおける鍛冶職人と音楽、上演アートの関連を特筆している。 カジャールを含むジャワの鍛冶職人らは、農機具だけでなくガムラン(ジャワとバリの伝統的楽器)も製作している。金工職人は真ちゅうと青銅を材料にガムランの鐘、鍵を作る。ガムランの製作者は現在、楽器一式を海外へ輸出しており、主な購入者は欧米の学校や教育機関だ。ジャワにおいて楽器は娯楽のためだけでなく、社会の重要な役割をも果たしている。 ダナムはジャワの鍛冶業について、4種類の仕事を記述。これらは▽エンプempu(鍛冶頭)▽パンジャックpanjak(ハンマーを振る「先手」)▽トゥカン・ウブブtukang ubub(ふいごを押す「番子」)▽トゥカン・キキールtukang kikir(やすり掛け役)、だ。彼女はこれら役割の名称と演奏家・上演芸術家との関連性を指摘している。例えば鍛冶頭は、ワヤン・クリットwayang kulit(革製人形)の人形師が上演を“総指揮”するのと同じように、あらゆる器具の製作を”総指揮”している。 ダナムによれば、ハンマーを振る先手(さきて)数人は音楽のように1、2、あるは1、2、3のリズムで交互に鉄材を打つ。ジャワ語の「パンジャック」には音楽家あるいは演奏家という意味もあり、おそらくこのリズム音と関係している。大きな鍛冶村落に一歩踏み入れれば、鉄材を打つ音が村の隅々から響きわたってくる(Dunham 2009)。 ■興味深いのは、彼女はメンタルの面からプラペンperapen(鍛冶場)で働く女性を、以下のように記述している点だ。:―――女性がトゥカン・ウブブとして労働する場合、作業中はふいご台にとどまり、飛び降りたり男性との日常会話に参加したりすることはない。いくらかかしこまって座り、仮面のような特有の表情でおり、すべての感情と活気さを打ち消している。 記述はさらに続く。:―――筆者(ダナム自身)は初期の論文で、この表情とジャワの古典舞踊家、ガムラン楽団のプシンデンpesinden(伴唱者)、あるいは伝統的結婚式で着飾られた花嫁らの各表情とを対照させてみた。これは守りに入った保守的な表情にみえ、あたかも公衆からの誤解を招きかねない、“曝された”立場の女性がつくるものだ。鍛冶産業で労働する女性は、慣習的には彼女らに無縁な「男性の領域」に入るため、非難の的になると感じている(Sutoro, Dunham 1982)。 ダナムは、仮面のような特有の表情で‘ふいご役’として作業している若い女性の写真を残している。コピーライトの都合上、事例としては最適なその写真を掲載することはできないが、彼女の書籍Surviving-の139ページで、その写真を見ることができる。 ■ハワイ大学のナンシーI.クーパーが論文で、ワランガナwaranggana(プシンデンのこと)に触れているのも興味深い。彼女によればワランガナはしばしば、彼女らの“力”を具現化する’振る舞い’を抑え、男性をたてる。それは、男女が共有する「社会調和」というイデオロギーを保つためである(Cooper 2000、概要)。 ■アジアの共同体は、西洋よりは男女のテリトリーが明確と考えられる。ゆえに、もし女性が男性のテリトリーに足を踏み入れ、あるいは“侵入”した場合、女性たちは表情を控えめに慎み深く、謙虚に振る舞うだろう。逆に男性で女性のテリトリーに足を踏み入れた者は、気まずく感じ、横柄な態度を取ることはまずない。アジアの共同体が普通、男性優位社会にあるにもかかわらず―である。女性と男性はそれぞれのテリトリーの境界上で、敬意を持ちつつ相互に影響し合い、結果として “押しつ押されつの方法”で地域社会は自らの文化を発展・活性化させることができる。 音楽・上演芸能と社会との相互作用の理解を深化させることが不可欠であり、このためには、フリーランドの「体現化された社会、ジャワの舞踊伝統と変容」(社会価値と宗教、哲学などに関係したジャワ舞踊を論述)などの研究が今後も一層求められていくことだろう。 参考文献: Ann Dunham Sutoro,1982. “Women’s Work in Village Industries in Java.” Unpublished MS. ――――2009. Surviving against … Continue reading

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r.i.p.MICK KARN ~メモリーを闊歩する天賦の芸術家~

誰にでも、その逝去に向き合い、その旅立ちに何かしらのケジメというか節目― 咀嚼といってもいいかもしれない ―をつけなくてはならない芸術家というものがいるだろう。 僕の場合、その芸術家のひとりはMick Karn(本名Anthony Michaelides)である。 「芸術家」と仰々しく言うと肩が凝ってしまいそうだが、Mickはフレットレスベースの鬼才として知られているほかに、僕にとっては彫刻家、画家としての比重も結構大きい。 僕のMickを巡る記憶は、ご多分に漏れずJAPANからだが、高校生の時に田舎の本屋で手にした何かの雑誌に掲載されていた、彼のモノクロ写真が強烈に脳裏に焼き付いている。 その写真とは、自作彫像を周りの暗闇に置き、座禅を組むかのように中央に座り、ベースを弾いている或いは抱いているかのようなMickの姿だった。この体験以降、僕はベースに没頭する意を決めた(のだったが、今となっては…)。 ミュージシャンとしてのMickは、ベーシスト以外にサックス、アフリカンフルートの奏者、ヴォーカルとしての横顔も無視できない。これだけではない。「芸術家」Mickが創作していた彫像は、高校生当時は下手ウマと思っていたが、目にする度に彼のオリジナリティが伝わり、いま改めて見るに、ユーモアだがどこかもの哀しく、味わいのある優れた作品群だ。そこからは土着的というかアフリカ的というか、彼の生まれ故郷のキプロス島的なイメージを否定できない。 画家Mickの作品は、その数多くを知らないが、「もしや、これも…」とグッと惹きつけられたこの絵画は、やはり彼の作だった(左絵)。 前後するが、高校時のMick原体験となった写真を探してみたら、あった! 正確に言うと、それらしきものが見つかった。それが冒頭の写真‘Lonely Musician’だ。 ただ、自分が記憶していたイメージと、どこか違う。でも改めて眺めると高校時に見た写真は、これだったような気もする。頭の中が多少混乱している... 芸術家の才能の源泉をルーツに帰納させることは、安直な推測――と控えていたが、MickとLiquid Glassを共作した半野喜弘氏によるライナーノーツを読み返すに、流石、的を射た興味深いMick像を記しており、なにか吹っ切れた。ここでちょっと同氏の言葉を借りる。 ほとんどの音楽家というものは、自らの音楽とその時代との関連性を切実に求めるものだ。 ...そんな中で、ミック・カーンという音楽家はそういった欲望とはほとんど無縁に(無縁ではないが、少なくとも意識的ではなく)存在してきた。...彼は創造する手段として音楽を選んだに過ぎないのかもしれないとも思う。 言葉、 絵画、 彫刻、 建築、 何でもよかったのだろう。 ミック・カーンのあの独特なメロディー感、リズムの発想は彼の人種的背景に大きく関わっている。彼にとって、アラブ・中近東の調律、スケールは極自然なモノのようで、本人に特別な意識はまるで無いのが笑える。自分のプレイが奇妙だと認識するまでに時間がかかったと以前に話していたので、本人は特異性についてはそれほど意識していないようだ。 ...彼自体が、音楽をそれほどロジカル、理論的に創るタイプではないので、より自由度を増しているのだろうが、彼は鋭い嗅覚、そう嗅覚で音楽を創っている。(Japanのメンバーというのは全員そういうタイプのようで、勿論ベクトルはそれぞれ違うが、それで結果ああいう奇妙な音楽を創る結果となったのだろう、偶然?)。                (Each Eye a Pathのライナーノーツ、2001年より抜粋) Mickの生まれ故郷キプロス島は、オスマントルコ帝国の影を残す北キプロス・トルコ共和国と英国領、キプロス共和国(ギリシャ系)の3地域に分かれており、これだけでもこの島の複雑な歴史背景が十分に伺える。Mickは3歳に家族とともにロンドンに移っているが、2004年から癌が発覚する2010年まで妻子と共にキプロスに戻っていた。(と、これを書いている最中に公式サイトを読んだら、彼は「トルコ音楽の影響を受けている」と言明していた^^)。 Mick Karn on the Southbank 1983 – “Sculpture” DL後、拡張子をmp4に 僕は残念ながらリアルタイムのJAPANを知らず、解散の詳しい経緯もよく分からない。ただ解散の1982年、Mickは早くもソロアルバムTitlesを発表しており、彼の作品中でも秀作(と僕は思っている)がこの時期に出されたことに、聴く度に驚きの念を禁じ得ない。 … Continue reading

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