Monthly Archives: January 2017

農村を翔けたオバマの母-インドネシアの民と歩んだシングルマザー【5】フィールドワーク14年=日本軍が武器作らせた村

「トンカン、トンカン」――。金属をたたく軽妙なリズムが、村の一角に響きわたる。 カジャール村。アンが14年間にわたりフィールドワークをした鍛冶村だ。ジョクジャカルタ特別州の南部にそびえるウォノサリの台地にある。 村民あるいは成人男性すべてが鍛冶職人というわけではない。世帯でみれば農家であり、農業と併せた重要な収入源として鍛冶業も営む。ほかの手工芸品を含めこうした農村工業は、インドネシア経済にとっては重要な要因の一つだ。バリ、スマトラなど他の島にも鍛冶村はあるが、主要な典型例としてアンはカジャールを選んだ。   ■「人々に役立つ研究」 多民族国家インドネシア。この島しょ地域の文化・経済人類学調査はオランダの学者らが主体だったが、独立後の1952年には米国から社会学者チームが乗り込んでくる。その中には、ジャワ農村の社会進化を説いた「農業のインボリューション」(63年)で世界的論議を巻き起こしたクリフォード・ギアーツがいた。 アンの親友であり指導教官だったハワイ大名誉教授のアリス・デューイ(86)も、当時はチームの一員だった。調査したのは竹細工、陶器、鎌の刃などが売られる農村パサール(市場)。アンの関心はアリスの研究と重なる部分が多かった。「ただ彼女は熱心な研究者だけでなく、調査した人々の暮らしを向上させる実践的方法も追求していた」   ■村民との会話楽しむ カジャールの人々は、おらが村こそが由緒ある鍛冶村だと信じる。不思議な力を持ったクリス(儀礼的短剣)職人が住み着いたことが発祥だとする先祖信仰を持っている。アンはこうした伝説や民族誌のほかに、鍛冶職人らの分業、損益、仕上がった農具の販売流通の仕組みを丹念に調査し、書き留めた。 「村民との会話を何時間も楽しみ、聞き上手だった」。村の有力商人だった夫を十数年前に亡くしたサストロスヨノ(82)は、娘マイヤと訪れたアンをきのうのように覚えている。 記述は詳細な村史にも及ぶ。その一期間、村民が言うところの「日本時代」(日本軍政の占領時)では、こんな事件があった。 日本軍は、ジャワで接収した大量の農具やくず鉄を村に運び込み、鍛冶職人らに武器づくりを強制させる。だが農具不足による食糧減産を招き、自分たちも食べ物に窮すると方針を一転。逆に壊れた武器類を村に運び、「人道的に農具製作を奨励した」(アンの著書)。   ■日本の農村支援 博士論文は92年に完成し、千ページ以上の大作となった。アンは研究者だけでなく一般の人にも読んでもらうため論文を抜粋再編し、出版する作業に取り掛かっていた。しかし志半ば、博士号取得から3年後、子宮がんで他界する。娘マイヤはアリスなど関係者に遺稿の編さんを働きかけ、2009年に「サバイバル・アゲインスト・ジ・オッズ」(邦訳「インドネシアの農村工業」)を発刊。母の夢をかなえた。 著書は、カジャール村を一例として、インドネシアの金属産業の発展を有史以前から現在に至るまで論述。独立後の日本の密接な関係についても紙幅を割いている。工業省幹部へのインタビューの中でJICA(当時は「国際協力事業団」)の活動にも触れ、各地の鍛冶村で行われたスプリングハンマーの試験導入を前向きに評価。「先進諸国の中では日本が唯一、インドネシアの農村で使える適正技術の開発に関心を持ってきた」と指摘している。 オバマは、母が足を運ばせたジャワの村々などをいつか訪れたいと記している。アンは、当時は滅びるいわれていた農村の鍛冶業が、それどころか発展存続すると論じた。逝去から約20年。カジャール村にいまも響き渡る金属の音が、それを裏付けている。(敬称略、おわり)

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農村を翔けたオバマの母-インドネシアの民と歩んだシングルマザー【4】芸術家族との交流=異文化理解させる子育て

インドネシアの実力派俳優、イクラナガラ(73)。2008年に大ヒットした映画「ラスカル・プランギ」(邦題:虹の戦士たち)で小学校校長役で出演し、演技は文字どおり白眉だった。日本でも上映され話題になった。「サン・キアイ」(13年)では主役を務め、国内最大のイスラム団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)の創立者を演じきった。 妻は、米国人のケイ・イクラナガラ(73)。カリフォルニア大バークレー校で学士、修士課程を修了した。ジャカルタにある米イ教育交換機関に勤めていた時に、ガジャマダ大の医学部生でありながら演劇の道を突き進んでいたバリ出身の男性と恋に落ちた。1970年に結婚し、ジャカルタで新婚生活を始めた。長男を生んだ後にも学業を続け、ハワイ大大学院で言語学博士号を取った。 ■似た境遇の友人 アンは長女マイヤを出産した間もなく、インドネシアの教育機関で英語教師を務めていた。ケイはこの職場でアンと出会う。同じく長男を出産したばかりで、年齢はほぼ同じ、米国出身、夫はインドネシア人、関心ごとは文化人類学の分野——共通点が多い二人はすぐに意気投合する。 イクラナガラは「アンは実直で我慢強く、ユーモラスな面もあった」「夫のロロは寡黙な人だった」と思い起こす。 オバマとともにジャカルタに移り住んだころのアンは、知り合いといえば米大使館で担当していた英語教室の受講生ぐらいだった。石油業界の米国人上流階級との付き合いを深めようとするロロには反発していた。 文壇の巨匠レンドラなどと親交があったイクラナガラ。アジアやアフリカでの教育研修など多様な経験を持つケイ。この夫妻と出会ったアンは、インドネシアの知識人や芸術家など未知の世界の人々に触れる。研究と仕事との兼ね合いで手工芸品、バティック(ジャワ更紗)など織物の収集家であったアンは、インドネシア・カルチャーへの造詣を深めていった。 ■マルチカルチュラリズム 70年代半ば、ケイもアンも学業の節目にハワイからインドネシアに戻ると、子供らを南ジャカルタ区クバヨランにあった米国人運営のプレスクールに通わせる。ここでは異文化教育を重んじ、同い年だったケイの長男とアンの娘マイヤはインドネシア語と英語を学び、バリダンスも体験した。 「アンはマルチカルチュラリズム(多文化主義)だった」とケイ。「多人種の島」ハワイで思春期を過ごし、異なる国の二人の夫と出会った母は、自分の子供に多様な文化を学ぶ大切さを教えた。マイヤはバイリンガル、オバマも簡単なインドネシア語を話せる。国際教育に試験的に取り組んでいたジャカルタの国立小学校と、普通の学校に通っていたのはよく知られた話だ。 ■オバマとの再会 イクラナガラ夫妻はオバマ少年とはあまり接したことがなく、青年になってからは母と妹に会いにジャカルタに来た時程度だった。 そんな夫妻にそれぞれ、上院議員オバマと再会する機会が訪れる。 2006年にあった米政府主催の若者リーダー招へいプログラムで、インドネシアの生徒約20人の引率者にイクラナガラが選ばれた。一行が招かれたワシントンD.C.で出迎えたのはネクタイにスーツ姿のオバマ。インドネシア人の子供グループを心待ちにしていたオバマは、引率者が昔よしみの人物と分かると興奮を極め、イクラナガラの手を持ったまま「知り合いのバパッ(おじさん)が来た」と関係者に紹介して回った。 米国の大学で教育者育成機関を通じて米国際開発庁(USAID)と関わることが多かったケイは05年、同庁幹部のオバマ表敬訪問に同行し、再会した。思い出話をすると、オバマは懐かしんで微笑んだ。その頬元がアンとそっくりなのが印象的だった。(敬称略、【5】につづく)

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農村を翔けたオバマの母-インドネシアの民と歩んだシングルマザー【3】マイクロファイナンス専門家=「スモール イズ ビューティフル」

ジョクジャカルタを見下ろす火山ムラピを思わせる長身のアントン・スジャルウォ(68)。1960年代からへき地での水資源確保などに取り組むヤヤサン・ディアン・デサの代表を務めてきた。 「ヤヤサン」は財団のことだが、資金援助だけでなく技術者らが村民とともにパイプや雨水タンクなどを敷設する草の根実行団体だ。ディアン・デサは「村のともしび」という意。 「アン・ストロとはよく現場で、インドネシア語と英語を交えて議論したよ」。深々と語り始めたアントンは70年代末、中ジャワ州スマランで行われた地域開発プロジェクトで知り合った。アンが著書でアントンの活動を記すほどに信頼関係を深めた。   ■自分のモラル アントンは地元の国立ガジャマダ大工学部で学んだ。ある日、入居していたキリスト教系宿舎を訪れたスイス人牧師から農村支援活動の話を聞き、ムラピ山麓の村を訪れる。生活水を得るために女性や子どもらが毎日、数時間かけて水流へ汲み取りに行く現実を目の当たりにした。 「なぜ地元のあなたたちが、苦しい村民に手を差し伸べないのか」。牧師の言葉が胸に突き刺さった。アントンは「宗教の教えというよりは自分のモラルとして、何かをしなくてはならない」。在学中の68年、有志2人とディアン・デサを立ち上げた。 72年に財団として登録して以降、地域社会や文化に即した「適正技術」を基に、廃水処理、バイオマスのエネルギー利用など活動は多岐に及んだ。支援地域は東ジャワ、アチェ、東ヌサトゥンガラへと広がる。マグサイサイ賞受賞など国際的にも評価され、世銀や十数カ国の団体、日本の国際協力機構(JICA)やNPOのAPEXも協力してきた。   ■数値でない「幸福」 スマランでのプロジェクトは、米国際開発庁(USAID)の資金援助によるもので、同庁スタッフとして農民や零細事業者への小口低利融資=マイクロファイナンス制度を担当していたのがアンだった。 「情熱家で、特に農村での女性の役割になると話がとまらなかった」。アントンによると当時はまだ、ジェンダー(性的差異)の視点は一般的ではなかったが、アンはすでに女性が重要な役割を占め、それが政策では見落とされていると指摘していた。 アントンは適正技術のエンジニアとして、アンはマイクロファイナンス専門家として、それぞれたどり着いた答えが「住民の自主性を支援」。考えが同じと知った二人は、いつしか「スモール・イズ・ビューティフル」が合言葉になった。70年代にベストセラーになった本の題名だが、各々の信念をその言葉に込めた。 技術畑出身のアントンは「アンから学ぶことが多かった」。女性の仕事、ゴトンロヨン(相互扶助)、地域コミュニティーにとっての幸福――。「数値や金額には表せないものにも価値があると教えられた」   ■フォード財団で再会 プロジェクトが終わると、アンは81~84年に米フォード財団ジャカルタ事務所で働く。採用の時に面談したのが、いまはインドネシアのテロ分析専門家として知られるシドニー・ジョーンズ(64)だった。本来は地域紛争の平和的解決が専門で、シドニーは、「現地を知るスペシャリストとして、アンは打って付けの人材だった」と振り返っている。 フォード財団は、ディアン・デサを支援した最初の外国団体だった。アントンはジャカルタ事務所を訪れる機会が多く、アンと再会した。そこでは、母に会いにハワイから来ていたオバマ青年を見掛けたこともあった。 「情熱的だったアンをいまでも思い出す」。そう語るアントンは古希に近づいてもなお、辺ぴな島しょ地域へきょうも足を運ばせる。(敬称略、【4】へつづく)

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農村を翔けたオバマの母-インドネシアの民と歩んだシングルマザー【2】フェミニスト =変わった親友同士「宇宙人」

「なぜ依頼した原稿を提出できないの!」 1981年当時、有数の社会科学ジャーナル「プリズマ」の編集委員を務めていたジュリアは、11歳年上のアンに怒鳴りつけた。アンは、農村での女性の役割に関する寄稿を請けていたが、締め切りに間に合わなかった。米フォード財団での仕事が急きょ増えてしまったためだ。 ジュリア・スルヤクスマ(62)。インドネシア人女性作家で、有力英字紙ジャカルタ・ポストでは専属コラムニストを務めている。フェミニスト(女権論者)で、ペンで女性の地位向上を訴えてきた。アンとの最初の思い出は原稿落ちをめぐる口論だったが、歯に衣着せぬ率直な側面を互いに知った二人は「腹を割って話せる相手」として、生涯の友に。女権だけでなく差別、偏見など社会問題についても話が尽きなかった。「職業や性格は違っていたが、社会正義では共鳴した」   ■女権向上の実践者 当時、アンはジャカルタにあるフォード財団東南アジア支部に勤め始めたばかりで、女性と雇用促進プログラムの責任者を任された。「実践するフェミニストだった」とジュリアは評する。それは欧米の学者にありがちな、西洋の基準にはめ込むものではなく、インドネシアの地域社会と文化に即した「女性の地位向上」だった。アンが研究していた経済人類学にも通じるものがあった。 80年にインドネシアの開発研究機関LSPから発刊されたアンの論文は、ジャワ村落での女性の仕事に関するものだった。手工芸品や織物など主な農村産業では女性が大きな役割を果たしていることを実地データで裏付け、地域開発には女性支援が重要と主張。こうした視点を当局者に浸透させるテキストとなった。   ■外交官の家庭育ち ジュリアは、父が外交官だった家庭に生まれた。保守的な家風で、幼い時から男の子顔負けで走り回り、批判主義的なところがすでに芽生えていた娘に両親は手をこまねいていたという。 映画監督と結婚し、モデルを務める傍ら、持ち前の英語の文才で社会派女性作家として主張を続けてきた。それは自分なりのジハード(ムスリムとしての努力)だった。そんなジュリアをアンは「別の星から来た宇宙人」と冗談めかした。 逆にジュリアは、米国で異人種結婚に風当りが強かった60年代にケニア人と結婚し、子をもうけ、後にはインドネシアの農村調査にいそしんでいたアンに「あたなこそ風変りな宇宙人」と笑って返した。   ■控え目だったオバマ青年 ジュリアは、南ジャカルタにあったアンの住まいで、夏休みに訪れていた二十歳すぎのオバマと閑談したことがある。母親の脇に物静かに座っていた姿が印象的だった。 当時のオバマは、ロサンゼルスの有名カレッジに通っていたが、自分が進むべき道を見つけられず悶々としていた。アンは成績優秀な息子を自慢する一方、「お前はもう少し、野望を持った方がいいわよ」と冗談ぽく背中を押した。その言葉が今となっては印象深い。 アンは各地の農村に足を運び、何時間でも女性たちと対話した。「そんな姿勢に学ぶところは多かった」。フェミニズムはイスラムの教えと相反しないというのが持論のジュリアは、アンを思い返しながら、きょうもコラムを通じて彼女なりのジハードに挑んでいる。 ジュリアは「アンが52歳で早世せず、生きていたら」と時々思いめぐらせる。「きっと、息子である大統領の政策批判を厭わない、社会派の面倒な母親だったでしょうね」 (敬称略、【3】へつづく)

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農村を翔けたオバマの母-インドネシアの民と歩んだシングルマザー【1】バリーとやって来た =庶民の営み愛した研究生

第44代米大統領を務めたバラク・オバマ氏の母親スタンレー・アン・ダナムは、インドネシアの庶民をこよなく愛した人物だった。シングルマザーとしてこの国で働きながら、ハワイ大の経済人類学研究生として、ジャワなど鍛冶農村のフィールドワークを14年間続けた。アンの夢は、自らの研究が女性や貧しい人々の地位向上に役立つこと。52歳で早世してから約20年。遺稿や旧友らのインタビューを通じて伝わって来るアンの志は、「庶民の幸福とはなにか」をいまのインドネシアに問いかけている。 バリーとやって来た 庶民の営み愛した研究生 1967年10月、栗毛色の髪を肩まで伸ばした白人女性が、縮れ毛の男の子の手を携え、丁子の香り漂うジャカルタ・ハリム空港のタラップに降り立った。20代半ばの若い母アンは、ケニア人の前夫との間に生まれたオバマ少年(当時6歳)を引き連れ、常夏のハワイとは変わらず日光がまぶしいインドネシアにやって来た。 出迎えたのは、西ジャワ州バンドン出身のロロ・ストロ。ハワイ大で知り合った二人は64年に結婚していた。一足先に帰国していたロロは、人類学部を卒業したばかりの妻とバリー(オバマ幼少期の呼称)との新生活を心待ちにしていた。   ■9・30事件の余韻 「容共シンパと無実の人たちの虐殺が鳴りを潜め、不安の中でインドネシアが立ち直り始めたころだった」。ハワイ大のアリス・デューイ名誉教授(86)はそう当時を振り返る。アリスはインドネシアの農村経済が専門で、アンの恩師であり親友でもある。 共産党クーデター未遂といわれる「9・30事件」は65年に起き、アンがロロと再婚した翌年だった。スカルノ政権下での国費留学生のなかにはスハルト新政権により抑圧された者が少なくなく、ロロもその一人。事件後に帰国を命じられ国軍の地理調査員として働き、インドネシアが63年に併合した西パプア(当時)に左遷される。辺境の地での過酷な国境策定任務は、ロロにすでにトラウマ(精神的外傷)を負わせていた。   ■異なるものに親愛 アンは一風変わった少女だった。キャリアウーマンだった母と、自由奔放な父の間に生まれた一人娘。保守的な風土の中西部カンザス州で生まれ育ち、一緒に遊んでいた黒人の少女が白人の少年グループから石を投げつけられ、ともに自宅の庭に身を隠したのは知られたエピソードだ。 父の仕事の都合で一家がハワイ州に移り住んだことが、アンの人生を決定づける。本土とは異なる「多民族の島」で、出身国(民族)別では日系人が2番目に多い。ハワイ大はさまざまな国から留学生を受け入れ、アンは人類学部の語学クラスでオバマの実父と、文化研究機関の東西センターでロロと知り合った。「アンは、肌がいわゆる有色の男性にしか目を向けなかったわ」と親友のインドネシア人作家、ジュリア・スルヤクスマ(62)は笑う。 アン・ダナムと言っても友人らはピンとこない。夫ロロの姓を名乗り、アン・ストロで通していた。オバマも幼少期はバリー・ストロの名前を使っていた。 ジャカルタで3人で暮らして3年後、愛娘マイヤを授かる。だがアンはロロの言動に不信感が募り、価値観のずれ、親族付き合いの葛藤も高まり、シングルマザーになる覚悟をし始めていた。 長女を産んで数年後、ハワイ大大学院・人類学科へ修士入学の願書を送る。志願論文を読んだアリスは、「アンがジャワの工芸品に魅了され、それらを作る農村の人々、特に女性の地位向上に役立つ研究に情熱的だった」。アンは71年、オバマをハワイの両親に戻し、博士課程に進んでからはインドネシアでマイヤとの2人暮らしを始める。 52歳の若さで子宮がんにより死去した。人生の約20年間はシングルマザーで、その素顔は自分の人生を重ねながら、異なる者、マイノリティー、弱者と手を携え闘う一人の女性だった(敬称略、【2】へつづく)     筆者:前山つよし ㈱PT. MAYAINDO PLUS 取締役、ライター。アン・ダナムの博士論文が要約編さんされたSurviving against the Oddsの邦訳「インドネシアの農村工業」(慶応義塾大学出版会、監訳:加納啓良)の訳者 (この投稿は、新聞連載に出稿する以前のオリジナルです。新聞では紙幅の都合で文字数に限りがあり、関心がある方々には十分に伝えられないため、ここで紹介します)  

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